【一応閲覧注意でお願いします。】
十年一昔という言葉がありますね。
それすら、過ぎ、もう12年。
早いものです。
あの日、あの時間。
私は当時の作業案件について電話をしている先輩と車に乗っていました。
その当時乗っていた私の車は、サスペンションが決して柔らかくなかったけれど、ん?先輩が貧乏ゆすりを始めたかな?と思っていたら、先輩の会話が、
「あ、結構大きめの地震ですね。」と言っていた矢先に、
「あぁ!ちょっと大きい!またすぐかけなおしますね!!」
と電話を切りました。
しかし、その電話はその日、掛け直すことは出来ませんでした。
あ、題名が干支一回り、つまり、12年前の今日のことを語りたがっていたので、追憶メモです。
なので、閲覧注意です。
その時、電話するために停車していた場所が高校の前でした。
そこにいる全員が立っていられませんでした。
経験のない横揺れ。
高校の廊下の強化ガラスがバンバン!と聞いたことのない音を立てます。
それと同時に室内の女子生徒の叫び声。
日常のすべてが非日常となった瞬間でした。
ようやく、揺れが収まったところで、
先輩は徒歩圏内であり、私もそれなりにその場所から家が近かったので、
「一旦、家に帰ろう」
となりました。
ところが、すでに幹線道路は渋滞し始めていました。
そこで私は裏道を抜けて、家に帰宅しようとして、
いつもの通り道、いつもの角を曲がった瞬間、
車体に衝撃が走りました。
死角で見えなかった古い家の庭の壁が道路側に倒れていたのです。
その車体とそれを見た私の心は凹みましたが、それでも家になんとか辿り着き、その当時、子供たちはまだ幼稚園児なので家におり、大した怪我もなかったのですが、頑張って家具やテレビなどを押さえてくれていたようでした。
家族の安否を確認でき、家の中の被害を確認すると、窓は不自然に開き、押さえ切れなかったものが倒れ、当時飼っていた金魚が金魚鉢から飛び出してピクピクしていました。
それから近くの知り合いの方の安否確認に車で一回りしていたら、見知らぬおじさんに声をかけられました。
電車も止まり困っているという話でした。
そら、そうでしょうよ。
と思って、そこそこ遠くのその人を家の近くまで乗せて行きました。
ただ、そこからの帰り道が地獄で、余震と渋滞の嵐でした。
公共交通機関が全面ストップしたその夜、
私の知り合いは、
麻布から徒歩で家に帰る人。
会社に仕方なく泊まった人。
帰り道に疲れた人のお腹を満たす弁当を格安で売る人。
様々でした。
敢えて、津波のことは書き記しませんが、
そこからテレビは、被害の状況から、一気に自粛ムードに。エーシージャパンのCMだけが流れるという期間に。
東北の人は当時語っていました。
私たちはとにかく負けてたまっか!の精神で戦うので、どうか皆様は皆様の戦いをよろしくお願い申し上げます。と。
しかし、この自粛モードは、いろんな言論の炎上も引き起こしました。
被災地の意に反して不謹慎という言葉が、飛び交い始めます。
あれから、どこかメディアや、Twitterなどのオフィシャルなところに書き込む時に非常に気を遣うことを余儀なくされたような気がします。
そして、12年経った今では、バイアスという違った意味での不謹慎の流れ。
あの日を忘れたい人にとっての、忘れてはいけないという風潮。
様々な意見が飛び交います。
あの日の非日常は、もしかすると、コロナで再燃し、日常に戻った今も続いているのかもしれません。
今日という日は、あの日の惨状を思い出すのではなく、あの日に学ぶ日にしたいと心から思います。