ダメなものはダメなんだよ!
これで全て丸く収まるならどんなに世の中楽だろうか。楽でもないか。逆に辛いかもしれないです。
正しさも時代によって変わる中、悪いことも時代によって変わるのだろうか。
令和に入り、ダメなものにも理由が必要になりました。
こんな書き出しと、かのような題名で書き始めたわけですが、最終、スーパー個人的意見です。いつも!
自分なりの結論にしかならないので、ここでUターンでお願いします。無駄に長いしね!
タイム
イズ
マネー!
さて
昔は良くても、今はダメ。
そんな時代を生きる人間社会で、実はやはり今忌み嫌われるものがないものが無いと成り立たないということが、見え隠れしてたりします。
冒頭で書いた「ダメなものはダメ」という言葉は立場によって楽にもなるし、苦しくもなるのですが、これに例外ってもんを作ってしまうとややこしくなります。
でも、例えば役所とか役場で正規の手続きを踏まないといけないこととかがそうなんですけど、相手と自分の相互理解があり、可能であればある程度の手続きを最低限省くことができれば例外みたいなものはできてしまいます。
さて、その正規の手続きはシステムですね。
そして、例外が省いてしまった手続きは現実です。
その間にあるものは、相手と自分の相互理解。つまり、信頼とか、熱意とか、誠実とかそんなところだと思います。つまり、根性みたいなとこです。
大昔から、人類は人と人の信頼で仕事上などの貸し借りなどが行われて、違反が起きると、紙で一筆とかやってきた成れの果てが、今のシステムですね。
申請などの役所仕事とか、話の流れからすると80%がシステムでしょう。20%が人間で、合わせて100が現実です。
しかし、この20%数字以上の物を孕んでます。
それは、結局、そのシステムを生かすも殺すもその20%にかかってるからです。
システムと現実を繋ぐのは、結局のところ、人間の熱意、誠実などの信頼感情に他ならないということです。
政治家も役人もルールにはうるさい割に、自発的に破りに行きます。
よほど、ルールを強いる側より、強いられる側の方が意外と守りますよね。
会社なんてなおさらでしょう。
つまり、世の中に今忌み嫌われつつ、そして、失われつつある「根性」みたいなものって結局人間社会の最後の砦なんだということをつくづく思い知らされました。
みんなそんな理性だけで動いてない。
みんなそんな潔白じゃない。
機械じゃないから。汚いところがあって人間なんです。
人によっても自分ルールを個数に限らず持っている人はたくさんいると思います。
でも、その自分ルールにグレーゾーンを少なからず作っているはずです。そこで、新たな価値を見出したり、後悔したりすると思います。
でもそれを繰り返して、許容の範囲を拡げられることもあると思います。
システムと現実の間のポリグリップのような潤滑剤が、人の汗と涙の根性であるがゆえに私も令和になっても帳尻合わせの根性論は最後の砦として活用していきたいと思ってます。
ってこれ、何の話?
いないとは思いますが、一応。
ここまで読んでしまった方、お詫びします。