TBSラジオ月〜木曜日お昼11時からの番組
「ジェーン・スー生活は踊る」
の相談は踊るのコーナー。
相談者さんは子育て中のお母さんで
決まった日にゴミを朝6時に出していた。
別日に近くの住人の方から
「朝もう少し遅くゴミを出せないか。
うるさくて眠れない。7時にできないだろうか。」
とわざわざ出かける途中の相談者に言ったそうだ。
しかし、相談者の生活の流れからすると7時前には出勤しなくてはならない。
様々、話し合った結果、折衷案で6時30分に出すようにした。
おそらくその相談者のお宅は一軒家で各家庭のゴミを一軒一軒出して置くと持っていってくれるシステムなのかもしれない。
そのお宅の住人を起こさないように、ゴミの置き場所を別の場所にする工夫もしたそうだ。
その相談者としては、弁当も作って、子供を起こして、夫を送り出して、ようやく6時にゴミを出せる時間ができるこの流れを、そして、毎日のすべてを否定された気がしてモヤモヤしたそうだ。
ジェーン・スーさんはよく頑張ってる!偉い!と。
私もまったく同じ意見だった。
たしか、この日は小倉アナがジェーン・スーさんのパートナーの日だった気がするが、日々の生活で疲弊してしまってすべてを否定された気分になったんだよね。と。
人は少しモヤモヤなことが起こると、いつもは人生の岩すら越えてた自分が、ちょっとした小石につまずくときがある。
この相談者さんも安穏な日々の中での指摘ならきっと普通に応対していただろうが、日々の雑務に疲弊し切ってる中でのその指摘に躓いてしまったのだろうか。
そして、コロナがあり、地震があり、私としては友達の奥さんの自死や同志の家族の病死と。。
時に、こんな非日常すら日常に変わりつつある過渡期に、周りはすごく動いていて、自分だけが取り残された。そんな気がするときがある。
辛いときはたくさん歌を唄った。
忘れるようにご飯を食べた。
でも、隠せない今までの人生の来し方と、こういった時代の背景。
そんなときに人は自死をしてしまうのかもしれない。
でも、みんな同じ気持ちなのかもしれない。
人は、なにと比べて絶望するのだろう。
自分の理想と現実のギャップなのか?
その理想には自ら作り出したものがいくつあるだろうか。
どっかで、見聞きしたものではないのだろうか。CM?ドラマ?
理想や幸せのカタチが媒体によって知らずのうちに刷り込まれているのかもしれない。
残されたものが、ある。
というだけで人は幸せである。
そして、たとえ多くを失ったとしても、すべて失うことはない。
時間の流れは生命と同じくらいみんなに平等だ。
時間を残された者にはその人だけの未来が残される。
残せる物は、これからも創って行けるはず。
誰しもが今回のコロナ中心の生活に疲れ、辟易し、自らの生活を削り、自らの時間を削り、自らの感情を削り、、自分の人生を削りながら生きている。
みんな外的要因に脆くなってしまった。
それは、私達大人がそう育ってしまったのが原因だ。
現実として社会がそうではないか。
なにかあれば責任。責任。
そして、少しでも綻びを見つければ、突いて辞任に追い込み、お手柄のように誇らしげする記者がいる世の中。
また、人の人生を狂わすネタを探す週刊誌。
誰もが人の責任にし、責任者は責任転嫁をすることを仕事にしてしまう。
まるで、自分のストレスを人の失言や、行動をあげつらい批判することで削られた自尊心を埋めているような。
もちろん差別はいけない。
しかし、自分に当事者を引き当てられない。
余裕がないのだ。
ところが
人に目を向ける余裕はあるというのだ。
目線はなかなか内面には向かわずに。
もっと自分に一生懸命にならねば。
脇目も振らず、前だけ向いて生きたいものだ。
見据えるのは明日の自分。
超えるは昨日の自分。
その責任は今日の自分。
文字にすると整理出来るな。
明日も頑張ろう。