SNSや検索サイトを使ってSNSという言葉を検索する人がいてもおかしくはない。
でも、おそらくこんな記事がもちろん検索結果の上の方に出てくるわけもない。
えぇ、今日まで言ってましたけど、わかってます。
だからもしかすると、相当運がいいか悪いかどちらか。
でも、どちらかといえば、、
やめときましょ。
さて、題名に、「とはいえ」があると言うことは、
逆説が入るのではないのか!
とお思いでしょう。
逆説が入ります。
SNSは連帯の象徴だったはず。
見知らぬ人と繋がれる。
同じ趣味の人と繋がれる。
ところがどうだろうか。
それが本意だろうが、なかろうがである。
いまや、中傷といえば、匿名の手紙ではない。
SNSという匿名の電子タトゥーのようなものだ。
手紙は燃やせば消えるが、SNSは消えない。
開発者だって、このシステムが構築された時は、驚きと興奮と共に明るい未来を予見したろう。
ところが現状、開発者の意図としない使われ方をして、まさにダイナマイトを作ったノーベル、核爆弾に応用されてしまったアインシュタインさながらだ。
こう言った物理的な攻撃物ではなくても、言葉で、つまり、口撃で人を殺めることは出来てしまうことも、人類は改めて知った。
やはり使う人次第なのだろう。
一体、具体的にどのようにして平和への行動をしているのかわからない金品の搾取団体が宗教団体と呼ばれていたことや、分断を推奨するような人物が核のボタンに手が届く地位まで上り詰める。
そんな世の中だ。
本来、悪は結託しやすく、善は連帯しにくい。
結託した権力は、民衆の連帯を恐れる。
だからこそ、縛りたくなる。
勝手なことをしてほしくない。
連帯をされると自分の立場が危うくなるからだ。
だから、その某団体は、金という力を失くさせたいし、家族という連帯も分断するのだ。
ところが、今や民衆は半径1メートルの視界しかないようだ。
損得感情や、地位の優劣、
そこに辟易したからこそ、ゆとりという言葉が生まれたはずだったのに、今や、ゆとり時代に学校に行った人たちにはそう呼ばれることを忌み嫌うものになってしまった。
ゆとりの指すものが悪かったのではない。
ゆとりを理解していなかった側の問題なのだ。
本当に必要なものはなにか。
それは他者に生きるということではないだろうか。
煽り運転も、会社でのいざこざも、家族の不和も、
結局は、原因は同じ。
自分の周りで起こる原則は、国でも起こるのだ。
他者を認めることは、ひいては、自分の存在をさらに確立し、連帯を強固にする。
あなたはたしかに存在する。そのことを証明できるのは他者でしかないからだ。
逆に言えば、他者を認められないということは、
自身を傷つけているのと同じことなのだ。
ゆとりとは、本来、自分のことだけで汲々とせず、他者に心を配るゆとりを教育として教え込むことが重要だったのではないかと思う。
まあ、結局は、教える側にゆとりがなかっただけの話にしてしまったわけだ。
SNSはたしかに地球規模に広がった。
しかし、本来の連帯という意味で、その本来の価値を失ったに等しいと思った。