人の死に出会うと、少なからず良くも悪くも出会った人には影響を与えるはずだ。
笑い話ではないが、私の高校時代のライングループがずっと続いていて、ずっと繋がっていた。
しかし、私がタイムラインに、とあることを載せたときにグループラインのメンバーの一人がリプライを寄越し、私を新たなグループラインに誘う文言があった。
内容としては、新たなグループラインを使って急にこの前オンライン飲みをしたそうだ。
だから、今度招待するね。という内容。
招待は未だにない。
その人はちょっといい加減な性格なので、忘れてしまったのか、勢いでリプライをしてしまったのかわからない。
新しいグループラインのことは使っていたグループラインではまったく告知していなかったので、驚くまではなかったものの、招待が来ないこともあり、モヤモヤした。
私は、知らないところで飲み会をすることよりも、知らないところでグループラインが立ち上がるという中学生の裏サイト的なものをいい大人が立ち上げることが辛かった。
しかし、それらの内容はどうでもよくなるような事実を耳にするのだ。
それは、よく元々のグループラインで飲みに誘ってくれていた友人の奥さんが亡くなってしまっていた。ということだ。しかも、泥酔による自死であったそうだ。
なので、最近飲み会に参加出来ていない私を含む数人を除き、その友人を励ますためそのグループラインを立ち上げ飲んでいたそうだ。
それを耳にしたとき、私はその話題にもともとの新しいグループラインのモヤモヤから入ってしまったからか、それとも感情のない人間に成り果ててしまったのか、
「なんていえばいい!!」
という小峠ばりのリアクションするというくらい、まったく感情が動かなかった。
私の奥さんとも一回会ったことがあったが、報告したところボロボロと泣いていた。
私は数回会っていたのだが、感情がこみ上げてこないことに戸惑いが隠せなかった。
ポロッとオンライン仲間に吐露したところ、
受け止め切れていないのではないか。
という結論に至った。
が、泣いたうちの奥さんからは
立場が違う、私は少なからずわかってしまった。だから、泣いてしまった。
と。
また、今動くことでもしかしたら救える命があるとすればと思うのと同時に、何もしないと声すらかけられないことがあるのなら、何も行動しない一日を作るわけにはいかないと少し自覚できたという。
少ながらずうちの奥さんにはそういった自覚を促す影響があったようだ。
人の死は、人の死を連鎖させることもあるほど、大なり小なり影響を与える。
今コロナで分断されているのも一つの影響なのかもしれないが、
声をかける。
この一つの行動で救える命というものが本当にあるのかもしれない。
故に、遺されたものの使命は一日一日を有意義に生き抜くことだ。