toujun’s blog

ラジオ、ゲーム、大好きなオジさんが始めた好き勝手に書くブログ

♪春、今、3月。たびー立つ季節♫

タイトルの歌詞がある合唱曲を、太古の昔に中学の合唱祭にて歌ったことがある。

3月といえばやはり卒業シーズンだ。

卒業といえば、卒業旅行とか、卒業遠足とか。

私も、卒業遠足のような感じで、ディズニーリゾートに行ったり、なぜかスケートリンクに転ぶ思い出を作りに行ったりした。

しかし、今年はコロナ禍で、ほとんどの学校行事が潰れる中、中学側はまだ粘っているようだ。





修学旅行







「え?」

って私は思った。

まだやる気なんだ。。
そこまでやる気なら、応援するが。



さて、いよいよ3/2に公立の入試結果が出る。
うちの息子も結果次第では私立に行くことになるかもしれない。


やはり公立と私立の授業料の差が大きい。
というか、大きすぎるのだ。


まあ、所得制限はあるが授業料実質無料化の申請とかもあるので楽にはなるだろうが。。


そして、翌日の3/3という日は、
もし、万が一公立が落ちた場合に、私立に受付をする日なのだ。

今週のお題「雛祭り」

そう。うちにとっての3/3はひな祭りではない。

2021年の我が家のひな祭りは、

うちの家計と息子の人生の分岐点の日である!!








(厳密には3/2やんとか言わない。)

今年の繁忙期は、、

サラリーマンと自営業の大きな違いの一つ。

 

それは

 

明日の仕事の心配をするか否かということだろう。

 

結局、毎日の丁寧な仕事の積み重ね以外、次の仕事への信頼は勝ち取れない。

ここは共通しているだろうが...。

 

繁忙期にあっては、そんなことを考えることも少ないが、今年に至っては少し例外かもしれない。

大手企業などの業績は、景気に敏感ですぐに影響が出るが、うちみたいな零零細の会社は、影響が出るのに少々時間がかかる。

 

実は昨年の業績は落ち込んだものの2〜4月は忙しかった。

 

しかし、今年はコロナ禍の影響がいよいよ出始め、1月にピークが来て、2月は閑散期のような有様だ。

3月に繁忙期になるという確証もない。

 

そうなると営業に回るということになるわけだが、うちみたいな零零細はあまりお得意を増やすと、回らなくなり断らなくてはならなくなるというウィークポイントもある。

難しいところだ。

 

そんなことを書き込んでいたら、とりあえず当面の仕事が入ってきた。

これから忙しくなる予定とのことだ。

ただ、コロナ禍でどうなるかとは先方も言っていたので、できることをする。

 

まずはこれだろうな。。

 

 

 

 

 

 

2月の憂鬱を脱せ!

焦る自分を抑えつつ、本日は、息子の受験最終日だった。

いわば、決戦の金曜ならぬ、日曜日。

 

朝から息子を送り出し、待つ時間の長いこと。

このところ、息子の受験に時間を割いてきた。

そんなことをいうと怒られるかもしれない。

 

もっと割けたのかもしれないが、私の中ではかなり割いて、付き合ってきたつもりだ。

 

 

そこで、不思議な感情になった。

 

息子はまだまだ青い中学生だ。

だからこそなのだろうが、成長力が物凄い。

ほんの一年前までは、なにを言っているのかわからないような中身が小学生のような子だった。

ところが、家庭教師のお陰か、はたまた少し前に出来た彼女のお陰か、もの凄く受験勉強を前向きに、そして、直向きに頑張っていた。

 

それは見違えるような成長ぶりだ。

 

子供は成長する。

親の私はどうだろうか。

こういう考察をし出すと身悶えるのはわかり切っているのだが、、。

 

それも最近のモヤモヤの一因でもあるだろう。

 

つまり、嫉妬に近いものだろう。

 

仕事をする→生活費+αがもらえる。→使う→減る→仕事をする→生活費+α、、

と毎日か同じことの繰り返しで、何も成していないと、はたと思うときがある。

まるで、笑う犬の生活のテリーとドリーのような感情だ。

 

それがモヤモヤの正体だと思う。

 

革新と新生な毎日を送れていないことへの妙な感情。

 

これは難しい問題だ。

 

しかし、私の人生の師匠は、

「小さな勝利の積み重ねがやがて偉大な勝利となる」

と希望をくれた。

つまり、今日は何をするのか。 

そして、それをちゃんと遂行できたかどうか。

この積み重ねが大事なのだと教えてくれた。 

 

「人生は勝たねばならない。それは、お金儲けが出来たとか、名声を得たとか、そんなことではない。誰になんと言われようと俺は勝ったと誇れる人生を送ることだ。」

と。

 

まだ受験の結果は出てないが、息子は自分に勝った。

 

私も、決意を胸に今日よりはまた勝ちに行く。

 

 

 

 

うーむ。モヤモヤだなぁ。

TBSラジオ月〜木曜日お昼11時からの番組

ジェーン・スー生活は踊る」

の相談は踊るのコーナー。

 

相談者さんは子育て中のお母さんで

決まった日にゴミを朝6時に出していた。

別日に近くの住人の方から

「朝もう少し遅くゴミを出せないか。

うるさくて眠れない。7時にできないだろうか。」

とわざわざ出かける途中の相談者に言ったそうだ。

しかし、相談者の生活の流れからすると7時前には出勤しなくてはならない。

様々、話し合った結果、折衷案で6時30分に出すようにした。

おそらくその相談者のお宅は一軒家で各家庭のゴミを一軒一軒出して置くと持っていってくれるシステムなのかもしれない。

そのお宅の住人を起こさないように、ゴミの置き場所を別の場所にする工夫もしたそうだ。

その相談者としては、弁当も作って、子供を起こして、夫を送り出して、ようやく6時にゴミを出せる時間ができるこの流れを、そして、毎日のすべてを否定された気がしてモヤモヤしたそうだ。

 

ジェーン・スーさんはよく頑張ってる!偉い!と。

私もまったく同じ意見だった。

たしか、この日は小倉アナジェーン・スーさんのパートナーの日だった気がするが、日々の生活で疲弊してしまってすべてを否定された気分になったんだよね。と。

 

人は少しモヤモヤなことが起こると、いつもは人生の岩すら越えてた自分が、ちょっとした小石につまずくときがある。

この相談者さんも安穏な日々の中での指摘ならきっと普通に応対していただろうが、日々の雑務に疲弊し切ってる中でのその指摘に躓いてしまったのだろうか。

 

 

そして、コロナがあり、地震があり、私としては友達の奥さんの自死や同志の家族の病死と。。

 

時に、こんな非日常すら日常に変わりつつある過渡期に、周りはすごく動いていて、自分だけが取り残された。そんな気がするときがある。

 

辛いときはたくさん歌を唄った。

忘れるようにご飯を食べた。

でも、隠せない今までの人生の来し方と、こういった時代の背景。

 

そんなときに人は自死をしてしまうのかもしれない。

 

 

でも、みんな同じ気持ちなのかもしれない。

 

 

人は、なにと比べて絶望するのだろう。

自分の理想と現実のギャップなのか?

その理想には自ら作り出したものがいくつあるだろうか。

どっかで、見聞きしたものではないのだろうか。CM?ドラマ?

理想や幸せのカタチが媒体によって知らずのうちに刷り込まれているのかもしれない。

 

残されたものが、ある。

というだけで人は幸せである。

 

そして、たとえ多くを失ったとしても、すべて失うことはない。

 

時間の流れは生命と同じくらいみんなに平等だ。

時間を残された者にはその人だけの未来が残される。

 

残せる物は、これからも創って行けるはず。

 

誰しもが今回のコロナ中心の生活に疲れ、辟易し、自らの生活を削り、自らの時間を削り、自らの感情を削り、、自分の人生を削りながら生きている。

 

みんな外的要因に脆くなってしまった。

それは、私達大人がそう育ってしまったのが原因だ。

現実として社会がそうではないか。

なにかあれば責任。責任。 

そして、少しでも綻びを見つければ、突いて辞任に追い込み、お手柄のように誇らしげする記者がいる世の中。

また、人の人生を狂わすネタを探す週刊誌。

 

誰もが人の責任にし、責任者は責任転嫁をすることを仕事にしてしまう。

まるで、自分のストレスを人の失言や、行動をあげつらい批判することで削られた自尊心を埋めているような。

もちろん差別はいけない。

しかし、自分に当事者を引き当てられない。

 

余裕がないのだ。

ところが

人に目を向ける余裕はあるというのだ。

 

目線はなかなか内面には向かわずに。

もっと自分に一生懸命にならねば。

脇目も振らず、前だけ向いて生きたいものだ。

 

 

見据えるのは明日の自分。

超えるは昨日の自分。

その責任は今日の自分。

 

文字にすると整理出来るな。

明日も頑張ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生と死と遺された者の使命

人の死に出会うと、少なからず良くも悪くも出会った人には影響を与えるはずだ。

 

笑い話ではないが、私の高校時代のライングループがずっと続いていて、ずっと繋がっていた。

しかし、私がタイムラインに、とあることを載せたときにグループラインのメンバーの一人がリプライを寄越し、私を新たなグループラインに誘う文言があった。

内容としては、新たなグループラインを使って急にこの前オンライン飲みをしたそうだ。

だから、今度招待するね。という内容。

招待は未だにない。

その人はちょっといい加減な性格なので、忘れてしまったのか、勢いでリプライをしてしまったのかわからない。

 

新しいグループラインのことは使っていたグループラインではまったく告知していなかったので、驚くまではなかったものの、招待が来ないこともあり、モヤモヤした。

私は、知らないところで飲み会をすることよりも、知らないところでグループラインが立ち上がるという中学生の裏サイト的なものをいい大人が立ち上げることが辛かった。

 

しかし、それらの内容はどうでもよくなるような事実を耳にするのだ。

 

それは、よく元々のグループラインで飲みに誘ってくれていた友人の奥さんが亡くなってしまっていた。ということだ。しかも、泥酔による自死であったそうだ。

 

なので、最近飲み会に参加出来ていない私を含む数人を除き、その友人を励ますためそのグループラインを立ち上げ飲んでいたそうだ。

 

それを耳にしたとき、私はその話題にもともとの新しいグループラインのモヤモヤから入ってしまったからか、それとも感情のない人間に成り果ててしまったのか、

 

 

 

なんていえばいい!!

 

 

という小峠ばりのリアクションするというくらい、まったく感情が動かなかった。

私の奥さんとも一回会ったことがあったが、報告したところボロボロと泣いていた。

 

私は数回会っていたのだが、感情がこみ上げてこないことに戸惑いが隠せなかった。

 

ポロッとオンライン仲間に吐露したところ、

受け止め切れていないのではないか。

という結論に至った。

 

が、泣いたうちの奥さんからは

立場が違う、私は少なからずわかってしまった。だから、泣いてしまった。

と。

また、今動くことでもしかしたら救える命があるとすればと思うのと同時に、何もしないと声すらかけられないことがあるのなら、何も行動しない一日を作るわけにはいかないと少し自覚できたという。

 

少ながらずうちの奥さんにはそういった自覚を促す影響があったようだ。

人の死は、人の死を連鎖させることもあるほど、大なり小なり影響を与える。

 

今コロナで分断されているのも一つの影響なのかもしれないが、

 

声をかける。 

 

この一つの行動で救える命というものが本当にあるのかもしれない。

 

故に、遺されたものの使命は一日一日を有意義に生き抜くことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

散々な日


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例えばこんな剥がれない壁紙を剥がしたら下地を損ねちゃったねって現場。

元請けに説明して、完璧を目指すのはできるけど100%は無理だよって伝えても、心は辛いわな。


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こういった下地処理して、やるけど、完璧には収まらないから、元請けから完璧にするためにはいくらならできますかって何度と聞かれて、全部ボード張り替えてください。っていうと無理というので、じゃあ、完璧は無理です。

総パテしても100%に下地が収まることはないしね。


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このレベルだよな。

そんなこんなで、帰りに休みの材料屋さんに頼んで外だしにしておいてもらった材料を引き取りに行ったら、大部分が置いてなくて凹んで帰るという。現場の収まりの悪さとダブルパンチを喰らいせめて今日の受験の結果だけは!

と願い今日を出発!


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頑張れ息子よ。

今日は息子の人生大勝負だった。

 

そう。受験だ。

 

人生初である。

 

一年前まで遊んでばかり息子が、急に成長した一年であった。

 

受かっててほしい。

 

終わりがあるから人は頑張れるものだ。

 

この前とある芸人のオンライントークショーで、不老不死の話があった。

 

不老不死になった場合、どうなるのかなと考えた。

 

みんなゆっくりになるのかな。

 

でも、いつまでにやろうって気概がないと、いつまでもやらないのではないだろうか。

 

私は終わりがあるから、みんながんばれると思うのだ。

そして、終わりは、始まりのための区切りであると。

 

ともあれ、一年という区切りで頑張った息子。

結果はどうあれ、悔いのないようにあと10日。

 

頑張れ