この前買った車の定期点検だった。
うちの担当営業マンが、購入当初からどういったわけか、やけに私に自身の恋愛の相談をしてくる。
先日もそうであった。
一見、すごくわたしを信頼して話してくれているように見えて、実は、自分のことだけを述べている。そんな感じを受けた。
内容としては、どういう性格の方向性の方と結婚すればいいかという。。
いやいや、、。
定期点検やぞ。こちとら。
今は令和で、物もすぐ手に入る。選択肢もたくさんある。
でも、選択肢が増えたことはそんなに幸福なことじゃない気がする。
選択肢の多さはそのまま自身の責任の多様性を意味する。
なので、困難を避けるという選択肢も安易にできるようになった。
それは困難を避けても生存はできる時代になったことを意味しているのかもしれない。
しかし、「生きる」とは「生存」のことではない気がするのだ。
そういう意味では、離婚という選択肢も簡単に選ぶ時代になったような気もする。
昭和生まれの私は、困難こそ成長の糧と言われ育ってきた。
今は、苦労をする奴は無能。みたいな風潮もある。
でも、夫婦とはお互いに困難を乗り越えようと誓い合った者達ではなかったのか。
例えば、洗面所の一つしかないコンセントで電動歯ブラシを充電していたら、ドライヤーを使うために抜かれて、あーあとなることもよくあるパターンだ。
これも積み重ねで辛くなることもあると思うが、ただ漫然とそれを受け入れるのか、それとも、毎回諭すように伝えていつか言わなくてもちゃんと差し直してまた充電できるようにしてくれるようになるか。
結果は喜びも、心のわだかまり度合いも違うだろう。
価値とは合うものじゃない。
生み出すものだ。創造するものだ。
骨も折れたところが再び結合する時に、さらに太く固くなるように。
困難とは避けるものではなく、乗り越えるものなのではないか。
夫婦ってそういうものではないのか。
とその担当営業マンと熱く話してしまった私がいた。
その困難を乗り越えるために大事なことは、目の前の一人を励ますこと。
そして、最後にシビレエイの話をした。
シビレエイって自分の餌を捕食する時に相手を痺れさせるのだが、その時、自分も痺れるらしいんですよ。
つまり、困難が訪れて乗り越えるために相手を励ましたりする時に、相手も、そして、実は、自分も励ましているから、お互いうまくやっていけるのではないかと思いますよ。
だから、困難がない結婚を選ぶよりか私なら少し価値観の違う人を選ぶかもしれませんね。
私はいい先輩がたくさん巡り会えたから、先輩の受け売りですけどね。
と。
そうすると彼は
また半年後には報告できると思います。
と。
それは俺の車の半年点検に託つけただけやないかい!
と心の中で叫ばずにはいられなかった。
まったく響いてないなぁ。と思いつつも
まあ、それなりの彼の目標ができたのならば、よしとするか。