今日2回目を打ってきた。
さあ!熱よ来い!薬も用意(これから)した(する)!
ワクチンを打つ、打たないは自由だ。
未知の病だから、未知の成分のワクチンを打たなくてはならないので、将来への不安も当然だ。
しかし、社会的に属している個人としては、迷惑をかけてはならないとほぼ義務的にワクチンを打つことになる。
そこで、打った打たないで差異が出てきてしまう。
これが差別に通じる素なのだ。
普段から聴いているジェーンスーさんのラジオで男女差別などについて、新たな考え方を私にもたらしてくれた。
ところがである。
やはり頭と心は合致しないものだ。
私も家族で話し合った時には、打たないという家族に健康を守りたいがために一身に、話したが埒があかないときに、お互いに感情論となり、
じゃあ、感染しないように完璧にやって!
しかし、これこの言葉こそが差別の始まりであると気付かされた。
あれだけ気をつけていたのに!
ただ、
ワクチンパスポートなるものが叫ばれる中
果たして差別なのだろうか。と。
男女問題は、生まれた時に選ぶことができない。
国籍、人種や、肌の色も、ジェンダーも、住む家の裕福度合いも。
そこで判断するのは、差別に通じるだろう。
しかし、今回は選択できるものだ。
もちろん打ちたくても打てない人がいるだろう。
しかし、打ちたくない、打たないはもはや
信念
である。
信念であるならば、貫くこともあるだろう。
女性というだけで、夜道に危険を感じることや、電車でも少し気をつけなくてならないことなど、
なるほど!っと思うこともあった。
その点ワクチンは平等だ。
選ぶ権利もある。
それなりの社会生活を享受するために、よくわからないワクチンを打つ。しかも自己責任で。
でも、これを打って実際に死亡者は減った。
打つのも信念だ。
打たないなら、やはりそれなりの信念を貫き通す姿勢は必要な気がするのだ。